2023年11月 県会長あいさつ

寒さが増す11月は霜月と呼ばれるように季語では冬にあたります。朝晩の寒暖差が10度以上の日もあります。皆様におかれましては体調を崩す前に自愛して頂き、師走に向けて挑戦に挑戦を重ねて頂きたく存じます。

 我々倫理法人会では「肉体は精神の象徴。病気は生活の赤信号」と学んでおります。さらに申しますと「肉体は心の容れ物であり、心のあらわれ。また、病気は一般に知られている原因の奥に、真の原因がある。心の不自然なゆがみや偏りが、肉体に赤信号としてあらわれている」と病気になる因について明らかにされています。そして病気に対しては「朗らかで豊かなうるおいのある心は、病気を治癒するほどの力をもっている。」と「心」が大きな役割を持つことが述べられています。これらを学ぶことにより、常に明朗な心を保つことで病気を恐れずにいられる。そして例え病んだとしてもそのことを苦とせず喜んで受け入れることができると希望を持つことができます。

病気は、生老病死という人生における免れることのできない四つの苦悩しみの1つです。私は大学卒業時から葬儀一本ですから、仕事柄この生老病死や愛別離苦といった苦難について考えさせられることが非常に多くありました。そんな中、幸運なことに春先から丸山敏雄創始者の独特の苦難観について学ぶ機会を得て、視野を広げることができました。その苦難観の根幹は「苦難そのものが美であり善である」という前向きな捉え方です。苦難とは、意味があり、原因があります。その苦難を解決する方法は、苦難から目を背けずに真正面から向き合い苦難の本質を見極めること。そして見極めた目の前の課題を一つ一つ正しく切り開いていくことです。苦難を乗り越えた人は、その善性が磨かれ人間として成長することができます。翻って申しますと、苦難とは人をより善くし、より成長させるために敢えて起こるのです。つまり苦難とは究極のところ「善」であり「美」なのです。このように苦難を捉えることができる人は、苦難に対して「なんと素晴らしく有難いことか」と受け止めることができます。

では、そのような強く柔軟で賢明な人間であるためには何が必要なのでしょうか。私は、いつも口を酸っぱくして「教養人と知識人」の話をしているので耳にタコができたと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、大切なことなので何度でも申し上げます。教養人と知識人の決定的な差は徳性、つまり優れた人格の持ち主か否かの差です。知識人は文字通り知識を持った人でありその量や質に重きを置いており、人格が問われることはありません。一方教養人は知識がある、つまり知識人であることに加え、人格や人間性が優れていることが重要なのです。この比較は遥か昔、孔子の論語に遡ります。中国哲学者であり論語の学術的な知訳注で著名な加地伸行氏は、論語に於いて教養人とは「君子」にあたると述べています。君子とは指導的な立場にある人のことを含め、五徳(仁・義・礼・智・信の)を備え、「義」を思い、立派な人間になろうと努力する人を指します。この君子と対照的なのが「小人」であり、一般的に立派な人である君子に対して小人は「つまらない人」と解釈されることが多いのですが、加地伸行氏はその意味付けに違和感を覚え、教養人である君子に対して、小人は知識人にあたると考えました。私もその考えは尤もだと思います。小人は孔子のもとで仕事をしていますから、ただのつまらない人ではないはずです。ただ、徳性という点において教養人ではなく知識人の枠に収まっているのです。

 では、君子のように知識豊かな人格者である教養者になる、または育成するためには何が必要かと申しますと、第一に教育が挙げられるでしょう。人間形成に大きな影響を与える教育は大きく分けて3通りあります。家庭教育、学校教育そして社会での教育です。今回は、知識人と教養人に大きく関連する学校教育に着眼し話をします。日本における教育界の歴史を振り返ると、教育が目的とする人間育成において、知識人から教養人までのグラデーションの中で紆余曲折してきたことが見て取れます。

学校教育に於ける重点課題は、「授業のあり方に尽きる」と言われています。授業の在り方、つまり教育の在り方には、学習指導要領が大きくかかわっています。学習指導要領は、教科等の目標や大まかな教育内容を定めており、全国の学校に於いて教育の一定水準を保つためのものです。これは社会の変化に対応すべく10年に1度、改訂されています。なぜ10年に一度なのかと言いますと、社会は10年単位で大きく変化し、学校も社会を構成する機関として変化に対応していく必要があるからです。改訂は主にその当時の学習指導要領が時代にそぐわない部分があったり、学校現場で起こった何らかの問題に対応したりして作られます。つまり学習指導要領を読み解くことにより、当時どのような人間を育てることが望ましいとされたのかを知ることができるのです。現在、多くの人が思い浮かぶ日本の教育の在り方は、「詰め込み教育」と「ゆとり教育」の2通りだと思います。しかし日本の教育史を紐解くとその二分法が些か乱暴であることが分ります。そこで少し長くなりますが、学習指導要領の変遷に時代背景を織り込みながら、戦後から現在までの教育界の歴史を振り返ってみましょう。

まず、学習指導要領の始まりは試案も含めると昭和22年です。この時期、特筆すべき点は昭和26年の学習指導要領である「生活単元学習の学習指導要領」です。この学習指導要領のもと、デューイの経験主義カリキュラムを主流とし、子どもの興味や関心を起点とした活動的な学習が行われていました。知識偏重を避けた、教育内容と学習の方法の個性化、協同化、直接体験が中心とされました。本来、デューイの教育哲学は教養人の育成に近いものでした。しかし、現場ではデューイが示した経験概念の解釈の相違や拡大解釈などが起こり次第に現場では児童生徒の基礎学力の低下が指摘されるようになりました。

実際、昭和30年代の学力調査の結果は決して良いものではなく、四方八方から学力低下を懸念する意見が強くなってきました。そこで戦後教育の流れを見直すことになります。ここからが知識人育成の始まりです。基礎学力の向上を目指し、各教科の持つ系統性を重視した新しい学習指導要領が昭和35年に作られました。科学技術の教育が重点項目となりました。この時期、日本は既に高度経済成長期に突入し、新幹線開通や万博開催による勢いがあり、ますます工業化が加速します。時は遡って昭和32年のスプートニクショックも人類初の人工衛星として話題を呼びました。アメリカの危機感による再教育編成は、日本への余波もあり、理数教育の高度化に大きく影響しました。

このように高度経済成長期に対応すべく制定されたこの時期の学習指導要領は最も内容の多いものでした。それがいわゆる「詰め込み教育」です。この教育法は昭和50年初頭までは日本教育のスタンダードとして、日本の教育現場で取り入れられました。膨大な勉強によって基礎学力の早期取得を目指す教育や、短期間の間にどれだけの情報をインプットし、応用できるのかを目指す教育を指すよう教育を行いました。

しかし昭和50年頃から「詰め込み教育」や、それに追いつくことができない「おちこぼれ」等が社会問題として認識され始めました。そこで昭和53年の学習指導要領ではそれらの問題を解決すべく、教育の肝要は「人間性豊かな児童生徒を育てる」ことにあると明記されました。膨大な学習内容は厳選され、ゆとりある充実した学校生活が送れるように改訂されたのです。この改訂が後に「ゆとり教育」と言われる問題の始まりになりました。

そして昭和の終わりから平成に入る頃、「いじめ」、「不登校」、「校内暴力」など、当初掲げていた「人間性豊かな児童生徒」からは遠くかけ離れた問題が全国的に注目されるようになりました。この問題に対して教育界では、「個性の尊重」、「自ら学ぶ意欲」、「主体的な学習の仕方の習得」の必要性が議論されました。そして体験的学習、問題解決学習を取り入れ、平成元年改訂の学習指導要領においてさらに学習内容を削減したのです。この転換により教育界は「新学力観」といわれる児童生徒の意欲・関心・態度を育成する方向へ舵を切りました

そして日教組の運動方針であった完全週5日制への移行間近、「ゆとりの中で生きる力を育成する」ことを土台として平成11年の学習指導要領の改訂が行われました。この改訂では「選択教科」や「総合的な学習の時間」が増加した一方、教育内容はさらに削減されました。故に教育関係者は元より、様々な関係機関や専門家からの批判が集中しました。これを受けて平成15年には早くも一部改正が行われ、結果として「学習指導要領の示していない内容を加えて指導することも可能」であるという基準性が明確化されました。

最近では、経済協力開発機構(OECD)による「生徒の学習到達度調査(PISA)」や国際教育到達度評価学会(IEA)による「国際比較教育調査(TIMISS)」に代表される国際的な学力調査の結果が公表されたり、全国学力・学習状況調査も復活したりするなど、低下した学力を向上させることが国を挙げての重要課題となりました。とりわけPISAの順位が下がったことをきっかけに、ゆとり教育が大きく批判され、これを受けて文部科学省は平成14年に新学習指導要領を作成、「脱・ゆとり」へと方向転換します。そして大幅に削減された学習内容は見直され、知識基盤社会に対応できる人材育成に加え、時代が必要とする「確かな学力・豊かな心・健やかな体」、文部科学省の定義でいうところの「知・徳・体」を三本柱とする「生きる力」の理念が重要視されました。具体的に言うと、インターネットやAIの生活への浸透により、社会や生活が大きく変わると予想される時代の変化に対応し、人生をより豊かにしていくためにどうすべきか主体的に考え出すことができる力が「生きる力」だということです。ここにきて教養人育成への兆しが見えてきたのです。次世代にバトンを受け継ぐ使命のある私たちは、子どもたちを教養人へと育む教育がなされているか、社会の構成員としてしっかり見届ける必要があります。

次に、大学教育に目を向けますと、最近は「リベラル・アーツ」という言葉が大学教育の中でよく聞かれるようになってきました。リベラル・アーツは「将来どのような職業につくにしても人文科学、自然科学、社会科学の三分野の知識を隔たりなく幅広く修得することが大切である」という前提に立って教養人を育む目的があります。例えばリベラル・アーツ教育で有名な国際基督教大学はリベラル・アーツについて、「個人の能力を開花させ、困難や多様性、変化へ対応する力を身につけさせ、科学や文化、社会などの幅広い知識とともに、より深い専門知識を習得させるための学習方法」と考え、クリティカル・シンキング、知識の汎用性、道徳心や市民性といったいわゆる人間性の育成を三本柱としています。まさに教養人を育てるための理念だと言えるでしょう。

 今、日本は経済成長の停滞、少子高齢化や格差社会など、これまでになかった事態に直面しています。そして多くの老若男女が希望を持てずに閉塞感を感じています。戦後は日本再建のために貧しくても多くの方が努力し、献身して来られました。戦後の焼け跡から短期間に成し遂げられた経済復興は、世界から驚きをもって「東洋の驚異」と呼ばれたほどです。そして20年近く続いた高度経済成長期の中、人々は「頑張れば頑張った分だけ暮らしが豊かになれる」と信じて働いてきましたが、それも石油危機で終焉を迎えます。そして次にバブル経済に入りますが政府の引き締め政策により、金融政策転換と総量規制の実施によりあっという間にバブルは崩壊します。私の考えですが、この時代の日本人と言うのは「がむしゃらに働く」という言葉がぴったりだと思います。働く目的が金銭的豊かさといった至って物質主義でありかつシンプル、そして終身雇用制度や年功序列が後押ししていたことは間違いありません。しかし、現在の日本社会問題に目を向けますと、代表的には「貧困問題」、「少子高齢化」、「人材不足」、「後継者不足」、「長時間労働」、「待機児童」、「介護問題」など見通しの立たない閉塞感に溢れています。心が痛むことに令和2年の小中高生の自殺者数は前年比25.1%増の499人で統計開始以来最悪の記録を塗り替えました。先進国で「若年層の死因トップが自殺」という国は日本だけです。物心ついたころからこのような世の中に生きていると、希望をもつことすら難しいこともあると考えられます。

私たちの時代は一部例外を除いてほとんどが「均一的」な集団の中の「普通」という名の枠に収まる、という前提で物事が進んでいました。(私はその「一部の例外」でしたが)しかし、今は社会情勢も人も複雑で、十把ひとからげにはできない個人間の差異が多様だという認識が広がっています。これは、今こそ誰も置き去りにすることなく機会と結果の平等に配慮し、教養人になるべく教育を受け、社会問題に取り組む人材を輩出し、一人ひとりが、そして社会が希望を創り出せるようにする機会なのです。難は美であり善であるように。

重要なことは、この問題は若年者だけの問題ではない、ということです。「大阪万博に行ったよ」という私たちの世代も率先して彼らが希望を持てるように、繋いできたバトンを手渡す使命があります。「自分だけ良ければ」と今の瀕死の日本社会の在り方にしがみついて年金を貰って逃げるのは無責任すぎます。私たちが受け取る予定の年金を納めてくれているのは誰でしょうか。私たちは歴史と尽して下さった先人からの恩恵を受け、次世代の人々が納めてくれた年金だけでなくIT化やグローバル化などで複雑化する社会、医療介護になどに大変にお世話になっている、今後なるのですから、彼らのために私たちは何ができるか、一肌脱ごうではありませんか。

例えば、「最近の人の多くは挫折を恐れて目標に向かって頑張ることをしない」、「そもそも目標を見つけたいけれど見つからない」など、方々から聞きます。目標という表現は曖昧ですが、会社を設立するとか、資格を取るとか、好きな人に告白するとか、色んな次元があっていいのですけれども、ともかく私の考えとしては、挫折や失敗することを恐れずに思いっきりぶつかって、挫折いう苦難も自身の成長と言う糧にしてほしいということです。傷つくことを恐れて何もせずに後悔し虚しい人生を送る人と、ぶつかって挫折し深く傷つく人や大成して大きく喜ぶことができた人と、どちらが生きた実感、人生の充足感があるかと言えば後者の方ではないでしょうか。人々が後者になれるように、私たちは次世代のために、知識人であることよりも多様性をもった教養人として生きることの方が大切であることを訴え、セーフティーネットの拡充に努める必要があると考えます。

最後に重ねて申し上げますが、苦難が襲ってきたときに誰もが最初は「辛い」、「苦しい」と思うことでしょう。そして「幸せになりたい」、「もっと安らかに過ごしたい」と安易な道に逃げたいと思うかもしれません。しかし、その苦難こそが美、善として自らを向上させる機会であり、生きている証であることを決して忘れてはなりません。それが教養人であるということです。

 今回は一段と長くなってしまいましたが、鮮やかな紅葉の季節ですので、朱に染まる葉をご覧になって一息ついて下さい。そして心を燃やし今月も意気軒高として倫理、事業、各種活動に邁進しましょう。

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