2023年6月 県会長あいさつ
6月に入り、はるか南の海に発生した台風の影響により、今週はずっと雨の予報が出ていますが、雨に濡れたあじさいの色はひときわ鮮やかで私たちの心を和ませてくれます。
皆様もご存じの通り、6月と9月は日本における雨季で雨の多い月です。
「雨だと憂鬱だ」、「晴れてほしい」と感じる人も多いかもしれませんが、我々倫理を学ぶ者には「天候気候の倫理」という考えがあります。それは、「雨の日もこれが良いのだ」と雨を受け入れ、その気候を楽しむことです。私は先日の奈良市の倫理経営講演会での講師の方から、そのことをしっかりと学ばせていただきました。
実を言うと、私は幼い頃から雨降りが大好きな子どもでした。特に日曜日の朝からしとしとと降る雨に心を落ち着かされることが多く、「今日は一日ゆっくりしよう」と言ったようなリラックスした気持ちになりました。反対に晴れの日は「何か生産的なことをしなくてはいけない」という強迫観念が強かったのかもしれませんが、雨の日が本当に大好きで心穏やかに過ごしておりました。「晴れの日は枝が伸びる。雨の日は根が伸びる」、「根を養えば、木は自ずと育つ」との言葉の通り、私は雨の日に倫理で言う根の部分を育み、そして見えない心の世界を養っていたのでしょう。我々が学んでいる倫理は、この根の部分や見えない世界である心の部分が肝要ですから、この雨の季節を前向きに受け止めて、自身の成長を目指していきましょう。
さて、先月初頭のゴールデンウイーク。私は5日間お寺に通い、修行をしてまいりました。「倫理法人会は宗教団体ではなく、社会教育団体であり、一般社団法人です」という言い回しをよく聞きますが、その言葉の裏には「宗教団体=悪いもの」(つまり、「倫理法人会は宗教団体じゃないから安心ですよ」)という含みが見え隠れしています。しかし、「宗教=悪」と決めつけること、それ自体が歪んでいると私は考えています。
怪しかったり、悪かったりするのは、あくまでごく一部のカルト的な宗教であって、日本の伝統の宗教を含む多くの宗教は概ね人間主義に基づいた素晴らしいものだと私は確信しています。
ご存知の通り、私も宗教者です。私が葬儀の仕事を志したときに「葬儀者たるもの宗教者たれ」と勤め先の会社の社長に教えられました。まず、葬儀に携わる者は、故人の「死」をきっかけに、故人やご遺族などと向き合います。その際、ご遺族が「魂」や「あの世」、「祈り」についてどのような捉え方をしているのか、彼、彼女らの「心の世界」を深い洞察力を以て理解し、グリーフ(死別による悲嘆)をサポートする必要があります。そのためには、自分自身の生命や境涯を日々よりよく変革していく宗教的人間修行が必要となります。
ある統計では日本人の7割以上が信仰や信心を持っていない「無宗教」だと自認しているそうです。では、「無宗教」とは何を指すのか。私は、自分は「無宗教」だと思っている人は、特定の宗教を信仰する人々を危険視したり揶揄したりするために自身を「無宗教」だと主張しているのだと感じます。「無宗教」と自称する人も寺社に行けば賽銭を投げ、占いに一喜一憂し、験を担ぎ、幽霊を恐れ、罰(バチ)に怯える――そんな宗教的心性を持つ人が多いでしょう。
私は、日本人も諸外国同様に宗教観を養うことが大切だと思っています。有名な話ですが、仏教を開いた釈尊は、王子として満たされた境遇にいましたが、若き日にその贅沢も空しく感じ、生老病死という決して逃れられない人間の苦しみを目の当たりにし、その根源の苦悩の解決法を探すため出家しました。そこで、人間が生きる意味を明らかにする正しい思想・哲学を求めました。私たちも、生老病死や愛別離苦という決して逃れられない宿命があります。それにどう対峙していくのか。私は、宗教観や哲学が必要だと強く感じるのです。
万人幸福の栞を筆頭に創始者の丸山敏雄先生の著書には神道・仏教のみならず、キリスト教やヒンズー教、他あらゆる宗教のエッセンスが含まれています。その歴史、考え方は哲学にまで及んでいます。私が深く共感し、導いた答えは、国教を決めたり、唯一の正しい宗教はこれだと押し付けたりするのではなく、道徳心を身に着け、人間としていかに生きるかの哲理を学び、豊かな人間性を養うこと。そして、世界中様々な主義主張の宗教の中でお互い尊重しあい共通項を見つけ共栄共存の道を探る術を身に着けることが肝要だということです。宗教観や哲学無しには個人の内面を磨いたり、国が良くなったりすることは難しいように感じます。
人間が受け持つ四つの恩を「四恩」と呼びます。父母の恩、師匠の恩、国王の恩、三宝(仏法僧)の恩です。「恩を知らぬは鬼畜の如し」と、恩を知ってこそ人間であり、恩を知らないのが畜生だと言われます。わが社の愛犬「いーちゃん」は恩をよくよく知っていると思います。皆さんもワンちゃんなどパートナーがいる方も多いと思いますが、恩を知っていると感じることがあると思います。つまり、恩を知らないのは畜生以下とも言えるかもしれません。倫理では、報恩感謝、先祖の恩を知ることで、未来が開けることを学びます。それはメビウスの輪、つまり途切れることのないその形が「永遠」を象徴するようになっているとのことです。恩とは他者に押し付けるものではなく、自分の心で感じ響くものです。
ところで、京都の龍安寺の枯山水の石庭をご存知でしょうか。庭のどの位置から眺めても、15個の石のうち、必ず1個は他の石に隠れて見ることができないように設計されているのです。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の教えを図案化し、表現したものと言われています。石庭の石が一度に全部見られなくても、不満に思わず満足する心を持て、という戒めでしょう。私たち人間は足りない部分ばかりに目が行き、不満を抱きがちです。しかし、いま改めて自分に与えられた恩を感じ、噛みしめ満足する心を持ってはいかがでしょうか。
また、カルヴァンは、「隣の家の蔵が崩れる音ぐらい、気持ちのいい音はない」と言ったそうです。いつの時代も、人の不幸は蜜の味、他人の悪い所を探したり、妬んだりするのは変わりありません。生存競争のために互いに食物や異性を奪い合ってきた歴史が続いているのです。人間の本性と言ってもいいでしょう。しかし、宗教的、道徳的に鍛錬された人間はこの本性に打ち勝つ理性を発揮することができます。天地、自然、万物の恵みに感謝する心を持ち他者と一切れのパンを分け合える人間になれるはずです。
宗教、特に神道や仏教は一般的にイメージされる「呪い(まじない)」や「祈祷(きとう)」と言うよりは、日々の生活の実践に直結するものです。倫理も全く同じで学んだことを日常でどう実践していくかが大切です。宗教は神様や仏様との取引ではありません。どれだけ拝んでも病気が治るわけではありません。祈りをはじめとする信仰を通してまず変わるものは、正しく自分の心のありようです。おすがりの祈りではなく、「自分がこうする」と誓願の心、祈りに変わり、それを通じて行動が変わります。信仰は、渋柿が甘い柿に変わるように自分の心に化学反応を起こさせることが本来の目的です。倫理も全く同じで「まずは自分が変わる」ことが大切です。今年度の倫理研研究所における全員共通の実践である「人は鏡の実践」そのものです。
倫理は教えをただ学ぶだけのものではありません。吸収したことが日々の生活から滲み出てくるものなので、常に実践してまいりましょう。
ところで、コロナが五類感染症に移行し、奈良公園界隈の商店街は賑わいを取り戻しています。ただ、ここで注意すべきは、コロナ禍でせっかく学んだことをいかに活かしていくかということではないでしょうか?
身近な例で言うとインバウンド頼みの店の運営方式、広い視点で見ると経済大攪乱、同時株安(コロナ恐慌)など、自社の経営が他社の影響を丸かぶりする、日本経済に他国経済が影響をもたらす、という状態が多くあるということがよくわかりました。
江戸時代の武士道「山鹿流」を確立した山鹿素行は「常の勝敗は現在なり」と述べています。このコロナ明けの今、以前と異なる経営を行い、何としてでも勝ち抜く必要があります。この時、日本人の精神性として誤解されやすいのが、命を捨ててまで頑張るといった戦国時代のような武士道ですが、素行は、「命を大事にし、蛮勇に走ったりせず、正しく生きることが「士道」の天命である。」としました。ここでも、正しい宗教哲学の重要性が見て取れます。また現在の日本、平和の時代の武士道において、素行の言葉を借りれば、「道徳的な指導者としての精神修養を怠ってはならない」とも言えるでしょう。私はこのことから「今後の日本は、利己的な経済至上主義で勝負するのではなく、道徳重視の経営理念を基にした経済の在り方で勝負する」ことが重要だと考えています。
このことを皆さまの事業に落とし込んで頂くためには、我々が倫理法人会で学んでいる一つ一つが必ずお役に立つと確信しております。
ぜひ一度倫理法人会のセミナー等にご参加いただき、ご自身の内面に訪れる良い変化を体験していただきたいと願っています。